スピタル坂東 健診部長・心の診療科診療部長
筑波大学大学院 人間総合科学研究科 非常勤講師
茨城産業保健推進センター 産業保健相談員 笹原 信一朗
浦和神経サナトリウム 精神科医
筑波大学大学院 人間総合科学研究科 研究生 吉野 聡
筑波大学大学院 人間総合科学研究科 教授
茨城産業保健推進センター 産業保健相談員 松崎 一葉

1.ラインケアに対する現場ニーズ

職域におけるメンタルヘルス対策の重要性が浸透し、なかにはCSR(企業の社会的責任)の一環としてメンタルヘルス対策に力点をおく企業も今日散見されるようになってきました。実際に、企業が労働安全衛生管理を適切に行うことは、労働災害の防止だけではなく企業における生産性の向上にもつながる重要課題と位置づけられてきています。しかし、その一方で現在も中小規模事業所におけるメンタルヘルス対策は、人的・経済的問題を原因に専門の産業保健スタッフを確保することが難しく、困難を極めている状況もよく聞きます。われわれは、平成17年度調査研究課題「メンタルヘルス対策のラインケア実施における問題点の抽出とソリューションのための実地研究」において、中小規模事業所での管理職教育の重要性を報告してきました。その研究成果の一部として、中小規模事業所でのラインケアのポイントをまとめた『ラインケア支援の方策マニュアル』を作成いたしました。その後、これを活用した管理職教育を行うことで、専門の産業保健スタッフを配置することの難しい職場においても、管理監督者がラインによるケアを有効に機能させることが出来ないかと実践的支援方策についての検討を行ってきました。その結果が、今回平成18年度の調査研究課題「“ラインケア支援の方策マニュアル”を用いた管理職教育とその効果について」にまとまりました。そこで、今回「さんぽ便り」にて調査研究成果のダイジェスト版をお届けし、各職場でのラインケアにご活用頂ければと執筆させて頂きました。

2.ラインケアのポイント

現在厚生労働省のメンタルヘルス指針が出され方向性は明確になってきています。「セルフケア」、「ラインによるケア」、「事業場内産業保健スタッフ等によるケア」、「事業場外資源によるケア」の4つです。しかし、実際には残念ながら職場での対応に関する具体的なポイントが職場においてなかなか共通認識が持てず、結果として職場でどのように対応するのが職場にとっても本人にとっても一番良いのかそれぞれ判断しかねるケースが存在します。われわれの産業医経験と今回の調査結果からは、病気の職員に配慮した診断書を主治医が記載したために適切な病状把握がなされていないケースや、それに伴い誤った対応方法をとっている場合が分かってきました。
職場で「うつ症状」を示す病気には、広くその知識が普及してきた典型的な「うつ病」以外に様々な精神疾患があります。そこで、われわれは職場で「うつ症状」を示すタイプを理解しやすくするため便宜上3つに分類し、具体的に解説することにしました。医学としての厳密さを犠牲にしても、管理監督者が理解しやすく現場での応用につながりやすいことが実際のラインケアのポイントであると考えたためです。
「うつ症状」を示す病気を下記の3タイプに便宜上分類します。
ストレスが主原因のうつ症状→事例1へ
本人の素因(ある病気にかかりやすい素質)が主原因のうつ症状→事例2へ
人格(性格)が主原因のうつ症状→事例3へ

現場での対応で重要なことは、管理監督者自身で対応に困っている部下などがどのタイプに当てはまるのかを判断することではなく、きちんと主治医や産業医と連携をとりながらどのような対応をとるべきなのかを判断していくことになります。

3.ラインケアの具体的事例とその対応について(事例1~事例3)

事例1 ストレスが主原因のうつ症状
38歳男性。都内私立大学経済学部を卒業後採用となり、現在15年目で係長職。元来生真面目な性格ですが人付き合いは良く、部下の面倒もよくみていました。
上司からの厳しい仕事の要求に対しては、イヤと言えずに引き受けることが多く、その分残業と休日出勤も多くて、家にはほとんど「寝に帰るだけ」の生活でしたが、上司の評価は高いものがありました。
ある日、仕事上のトラブルが発生し、深夜に及ぶ作業が一週間続きました。この頃から部下に「疲れた」ともらすようになりました。その2ヵ月後、お盆休みに帰省した折りに実家の父が胃がんに罹患していることが判明。兄とどちらが実家に帰って面倒を見るかで口論となりました。
休み明け頃から朝起きると「軽いめまい」と「だるさ」を感じるようになり、食欲も低下してきました。心配した妻はかかりつけ医の受診を勧めましたが、「医者は嫌いだ」、「医者に行く時間があるなら家で寝ていたい」と取り合いませんでした。
1ヵ月後「職場に行かなくては・・・」と独り言をつぶやいているものの、ついに出勤できなくなりました。知り合いの内科医を受診したところ、「身体的に異常はない。うつだろうから早急に精神科を受診しなさい。」と精神科クリニックを早急に受診するよう指示されました。
受診の結果、診断は「うつ病」で、早速、抗うつ薬の投与とカウンセリングが開始されました。主治医より「診断書を発行するから1ヶ月間は自宅療養をするように」と勧められましたが、「うつ病の診断書だと将来に響くので、もう少し軽い診断書を発行して欲しい」と主治医に懇願し、結局「過労によるうつ状態。休養により十分に回復する見込みがある」との診断書が発行されました。
1ヵ月後、服薬と毎週のカウンセリングによって、食欲も安定し、睡眠も睡眠導入薬の服用によって、夜11時から朝4時までは寝られるようになりました。主治医は無理をせず、あと2ヶ月は休むように勧めましたが、本人は「行かないとみんなに迷惑をかけるから」と主治医に話し、復帰のための診断書を依頼しました。
結局、主治医は「治療を継続しながら復帰可」との診断書を発行し、本人はその診断書を持参して翌日出勤。課長に対して「ご迷惑をおかけしました、もうすっかり平気です」と何度も詫び自分を責めるような発言を繰り返しました。課長は本人の暗い表情やボーっとした様子が気にはなっていましたが、主治医の診断書に従って「復帰後もきちんと通院するように」とだけ話し、職場に復帰させました。
仕事に復帰したあとは、「今まで休んでいた分を取り戻さなくては」と昔のように残業を繰り返していました。しかしながら焦る気持ちが先行し、ミスを繰り返し、なかなか仕事が進まない状況でした。仕事復帰から2ヵ月後、自宅にて「私には仕事を遂行する能力がありません。私がいれば皆さんに迷惑をかけてしまいます。私は社会にとって不要な人間のようです。」と遺書を残しロープにて自殺未遂。幸い妻が発見し、一命はとりとめ、精神科入院となりました。
事例解説
この事例はストレス性うつ病の典型例です。背景に本人のイヤとはいえないまじめな性格があり、仕事上のトラブル、それに伴う過重労働、家族内のトラブルなど種々のストレスが原因となってうつ状態になったものです。
本来であればストレス性うつ病の治療にはおよそ3ヶ月かかること、睡眠導入薬を内服しても4時には目が覚めてしまう症状などから主治医はさらに2ヶ月の休暇を勧めましたが、最終的には本人の意見を尊重した診断書を出し、本人の強い希望による職場復帰をしました。
しかし、不十分な治癒状態と、その状態での更なる過重労働が重なり、結果として自殺未遂に至ってしまいました。
このようなストレスが主原因のうつ症状を引き起こす精神疾患の代表例としては、ストレス性うつ病(心因性うつ病)が考えられます。このタイプの疾病の場合、職場でいい人、出来る人がなりやすく、自責の念が強く、周囲に対する迷惑を気にする傾向があります。例えば「自分が休むと迷惑をかけるので休めません」などと言います。ただし、真面目で上司の命令に忠実な人が多いことから、上司の通院の勧めには素直に応じることが多いです。
このような場合、基本的には病気が回復すれば以前の状態に戻りますので、将来的には通院をやめられることが多いといえます。
職場での対応
周囲が「頑張れ」と言わないことが有効なのは、このタイプです。そのため、職場では次のように一定期間保護的に対応することが重要です。
(1)ストレスを軽減させ、休養をとらせる

このような事例ではストレスが主原因ですから、ストレスの軽減(勤務時間・勤務内容の配慮)を図っていくことが効果的です。また、上司からの勧めとしてきちんとした休養をとらせることが重要です。ただ単に「休んでもいいぞ」などと声をかけるだけでは、本人からは「ご心配をおかけしてすみません。大丈夫です」などといった返答が返ってくることが多いのです。また、休みを取っているようでも実際は家に仕事を持ち帰っていることもよくあります。
このような場合には「少し能率が落ちているようだ。少し休んで、またいつもの○○さんのような高い能力が発揮できるようにコンディションを整えて欲しい。」と言った具合に、休みを取ったほうが良い理由や、休んで元気になって欲しいということを誠実に伝えることが重要です。
(2)きちんと専門医の判断を仰ぐ

うつの兆候を発見した際には、きちんと受診を勧めることが重要です。ストレス性うつ病は早く適切な治療を開始すれば、その分だけ早く病状が回復します。逆に治療が遅くなればなるほど重症化しますので、治療期間も長くなり、薬剤処方量も多くなる傾向があります。また、入院治療が必要になることも珍しくありません。
もし、いきなり精神科や心療内科を受診することに抵抗があるような場合には、まずは行きつけの医師や健康管理センターなどの利用を心がけてください。
(3)職場復帰のタイミングを見極める

今回の事例では本人の暗い表情やボーっとした様子など、職場復帰に不安な状況を認めました。このような場合には、本当に本人が職場復帰できる状況なのかをきちんと見極める必要があります。主治医の診断書は本人の意見を尊重して書かれたり、本人に配慮して書かれることがよくあります。基本的には専門家の意見をきちんと聞くことが重要ですので、本人の承諾をとった上で主治医の先生に現在の状況を確認することが重要です。本人が主治医と上司が話すことに抵抗を示す場合には「あなたにきちんとした仕事上の配慮をしてあげたい。あなたは職場にとって重要な人材なので、しっかりと支援してあげたい。」と誠実に対応し、本人の理解を得るように心がけましょう。
また一般的に職場復帰のタイミングを見極める方法としては’意欲’と’焦り’ときちんと区別することが重要です。「仕事に戻りたい(意欲)」と思っているのか、「仕事に戻らないといけない(焦り)」と思っているのかは大きな違いです。意欲はうつ症状が軽快してきているサインですが、焦りはまだ病状の不安定さを示すものです。
(4)職場復帰は段階的に行うように心がける

ストレス性うつ病の場合には、職場復帰に際して段階的に行うことが大変有効です。仕事を休んで自宅で療養しているときには当然、体力的にも低下します。おそらく職場復帰して通勤ラッシュに巻き込まれるだけでも相当の疲労感を感じるはずです。身体的な疲労は精神的な疲労にも大きく影響します。また、職場復帰後すぐに困難で過大な仕事を遂行しなければならない状況になると、精神的な疲労感も強くなります。
このように身体的、精神的負荷が過大になると病気を再発する可能性が高くなります。職場復帰後3ヶ月程度は無理をさせず、徐々に仕事の負荷を増やしていくことが重要です。なお、職場復帰後半年以内が最も再発がおこりやすい時期ですので、完全に復帰した後もこの時期は職場で注意することが必要です。

事例2 本人の素因が主原因のうつ症状
47歳男性。都内有名国立大学理工学部を卒業後、同大学の大学院にて博士号を取得。その後、都立の研究所に研究者として採用となり、現在20年目。
若い頃は有能な研究者と見られていました。研究所では周囲との交流をあまり持たず、いつも自室に閉じこもることが多かったようです。しかしながら、華々しい業績があったため、特に上司が注意することもありませんでした。
40歳を過ぎた頃あたりから、ほとんど研究が進んでいない状況でしたが、周囲の人が気にして声を掛けると「お前らに俺の何が分かるんだ」と話し、寄せ付けませんでした。
ある日、所属の室長が本人の実験室を訪れたところ、書類は散乱し、実験器具はめちゃくちゃに破壊されており、カップラーメンの容器やパンの食べかすなどが散らかっていました。
このことから本人が全く実験を行えるような状況でなかったことが判明し、室長が健康管理センターに相談しました。
室長と健康管理センターの強い勧めもあって、本人は嫌々精神科のクリニックを受診しました。すると「うつ状態のため3ヶ月の自宅療養を要する」との診断書が発行されました。その後も繰り返し同様の自宅療養が必要な旨の診断書が提出され、合計で2年間の休職が発令されました。
2年間の休職の後、本人より「うつ状態の改善を認め、職場復帰可能と診断する」という主治医からの診断書が提出されました。無精ひげを生やしだらしない格好でしたが、主治医の意見に従い職場復帰させました。
この際、室長は以前同様の職務能率を期待していましたが、巷の本で『うつには頑張れと言うな』『段階的な職場復帰が再発予防の鍵』と記載されていたことを思い出し、勤務時間を3ヶ月かけて徐々に延ばしていくプランを作成し、本人に提示しました。
職場復帰後、段階的な職場復帰を目指しましたが、「今日は辛いから帰ります」、「夕方になると集中力が欠けてきてしまうんです」などと話し、なかなか勤務時間が延びることはなく、職場復帰後6ヶ月はほとんど成果があがりませんでした。そこで室長は業を煮やし、「そろそろ実験を開始してもらわないと困る」と伝えたところ、「室長は俺の業績を横取りしている」などと周囲に話すようになりました。
職場復帰後7ヶ月目で、突然実験室に来なくなり、今度は「神経衰弱状態」のため3ヶ月の自宅療養を要するという旨の診断書が発行され、結局、繰り返しの診断書で休職期限満了の3年間の休職が発令されました。
休職期限満了が近づいたある日、主治医から「症状軽快のため職場復帰可」の診断書が提出されました。しかし室長は「どうせまた同じことになるんだ」「俺だってメンタルヘルスを一生懸命勉強したけど、全く役に立たないじゃないか」との思いから、職場復帰に協力する気持ちにはなれませんでした。

事例解説
対人交流の少なさ、だらしない格好、荒れ果てた自室、長い自宅療養期間、上がらない仕事能率、延びない勤務時間などから、若いころから統合失調症を発症していた可能性が考えられます。主治医からは本人に配慮した診断書として、実際の病名ではなく、「うつ状態」「神経衰弱状態」の診断名がつけられています。そのため、室長は一般的なうつ病として対応し、結果として職場復帰がうまくいきませんでした。
このような本人の素因が主原因のうつ症状を引き起こす精神疾患の代表例としては、統合失調症、躁うつ病が考えられます。このタイプの疾病の特徴ですが、遺伝的な要因もあり、同じ病気を持つ家族がいる場合もよくみられます。また、長期間にわたる治療が必要な場合が多く、病気を治すと言うより、病気とうまく付き合っていくというイメージです。時には治療をしていても徐々に症状が悪化する場合もあります。
職場での対応
治療期間が長期にわたること、適切な治療をしていても症状が悪化することがあることなどから、職場だけの配慮では対応が難しい症例です。管理職だけが一人で抱え込むのではなく、人事担当や健康管理センターとも密接な連携をとりながら対応していくことが重要です。
(1)どのような病状なのかをきちんと把握する

一般的に単純なストレス性うつ病であれば治療期間が1年以上に及ぶことは稀です。このように休みが長期間に及ぶ場合には本人の素因による問題や人格的な要因を考える必要があります。長い休みからの職場復帰の際には、きちんと主治医や健康管理室の意見を収集し、正しい病状を把握することが重要です。
(2)とにかくきちんと通院を継続させる
 
このように本人の素因が主原因の場合には、「頑張れ」と言わないという対応だけではうまく対応できません。適切な治療を継続すれば特に問題なく就労を継続できるケースが多くありますが、適切な治療をしなければ症状が進行してしまうことが多いです。また、このような場合、自分自身が病気であるという意識(病識)が欠如している場合も多く見られます。
職場でもきちんと通院を続けているのか、薬はきちんと飲んでいるのかといったことを確認することが重要です。本人が通院を勝手にやめてしまった場合には、家族や健康管理センターと連携をとり、適切な治療につなげるように心がけましょう。
(3)就業上の配慮に関しては主治医、健康管理センター、人事担当等と相談が必要
 
このような事例の場合、未治療の期間が長かったり、継続した服薬が困難であったりする場合には、高い仕事能率を期待できなくなることもあり、特に創造的な仕事、瞬時の判断を必要とする仕事が困難になる場合があります。時には適切な治療を継続的に行っているにも関わらず、本人の職務遂行能力が低下してしまう場合もあります。
このような場合には、職務内容の変更を余儀なくされることもあります。しかしながら、本人の就労の権利に関する問題、職場での仕事分担の問題など慎重な判断を求められることになりますので、管理職だけで判断することは避け、必要に応じて人事的な対応や健康管理の観点からの適切な配慮を求めるようにしましょう。
 
事例3人格の未熟さが主原因のうつ症状
30歳女性。都内私立短期大学を卒業後、一般事務として採用になり10年目。採用後、事業所に5年間勤務しましたが、この時は特に問題となることはありませんでした。本人は異動を希望しなかったのですが、本社の経理課に異動となりました。
異動直後より、「経理課の雰囲気は良くない」「係長にセクハラされる」などと話すようになり、仕事を休みがちになりました。ある日、上司からあまり休まれては困ると言われたことをきっかけに仕事に来なくなり、本人からの連絡がないままに、無断欠勤が続き、職場も対応に困っていたところ、いきなり『うつ状態(職場のストレスが原因と考えられる)。3ヶ月の自宅療養を要する』という診断書が郵送されてきました。そのため、仕方なく、課長が病気休暇取得の手続きを進め、病気休暇を取得することとなりました。
その後3ヶ月たって、今度は『症状軽快につき職場復帰可能。但し、職場の配置転換が必要である。』という診断書が郵送されてきました。本来は職場復帰にあたっては現職復帰が原則ですが、主治医の意見を尊重し、部内で庶務課に異動しての復帰を考えることとなりました。
そのことを本人に伝えると「私は以前にいた事業所に戻りたい。あのころは調子が良かったが、異動させられたことで病気になった。職場を訴えたいくらい。もし庶務課に異動して具合が悪くなったら職場は責任をとってくれるんですか?」という返事が返ってきました。
そこで課長は直接主治医の先生の意見を聞こうと主治医に連絡したところ、「本人の承諾がなければ話すことが出来ません。医者には守秘義務がありますから」と言われてしまいました。そのため、本人に承諾を得ようとしたところ「プライバシーの侵害だ。職場のせいで病気になったのに、何で職場にその病気のことを教えないといけないのか。課長とやりとりをしていると余計病状が悪くなる。これは業務災害だ。」と言います。
本人はとにかく以前にいた事業所以外は嫌だとのこと。課長が「部内で異動しての職場復帰も特別の措置なのに、まして事業所にというのは難しい」と伝えると、「そんなことは誰が決めたのか。主治医は病気を再発させないためには、私が安心して仕事が出来る職場に戻ることが望ましいといっている。それが認められないというのは私に退職しろということですか」と言います。
そこで仕方なく例外的に本人の希望する事業所に異動しての職場復帰を認める処置をとりました。職場復帰後は特に問題なく勤務をしていましたが、職場復帰後半年が過ぎた頃から、本人がペアで仕事をしている採用2年目の職員について、「最近の若い子の礼儀はなっていない」「なんでこんな使えない子を採用したのか」と周囲に対し不満をもらすようになり、ペアの変更を所長に訴えるようになりました。それは無理であると伝えると「私の病気が悪くなってもいいのか?」と言います。所長は困ってしまいました。
 
事例解説
他者への責任転嫁、身勝手な要求、他人に気を遣わない言動がみられ、うつ状態の発症には本人の人格的な未熟さが 大きく影響していたと考えられる事例です。
主治医からは本人の希望通りの診断書が出され、職場の事情も分からないのに、配置転換の勧奨が出されており、環境変化による再発の可能性は考慮されていないようです。また、本人の言いなりの人事対応をしたことから、次第に要求が過度になっています。
このような本人の人格の未熟さが主原因のうつ症状を引き起こす精神疾患の代表例としては、人格障害が考えられます。
このタイプの疾病の特徴としては、①休職、職場復帰を繰り返す場合が多かったり、無断欠勤や当日休を取得することが多い、②自らの待遇や権利に対する主張が強く、症状の変化を周囲に責任転嫁する、③主治医を頻回に変えることが多いといった傾向がみられます。
 
職場での対応
この事例では本人に対して保護的に対応したことで、人格的な未熟さが増長されてしまったケースです。たとえうつ状態という診断書が発行されていたとしても、職場のルールや常識を疎かにしてもよいということはありません。但し、このような場合にも様々な精神的疾患が背景にある場合がありますので、人格障害の診断は専門家により慎重に行われるべきです。安易に「あれは性格の問題だから」と片付けてしまうのではなく、主治医や健康管理センターに相談をするようにしましょう。
(1)就業上の規則に則ったきちんとした対応を行う
 
このような場合、要求に対し保護的に対応するのみでなく、決まり事を設けて厳格に対応することが重要です。この事例でも次のような対応が本人の未熟な人格を増長させてしまった可能性があります。
まず、病気休暇取得の手続きですが、この手続きは本来、本人がきちんと申請して行うべきものです。無断欠勤を続ける中で、一方的に診断書が送りつけられてきたからといって課長が問題が生じないように処理してしまうのではなく、きちんと本人(無理な場合には家族)が職場に連絡を取り、必要な手続きをするように指導すべきです。
次に、職場異動に関してですが、医療上、本人が希望する部署への異動が必要な状況であれば、そのことに関して主治医から詳しく病状を聞く必要性があります。主治医には会わないで欲しいが、就業上の配慮は自分の思い通りにして欲しいといったことは筋の通らない行為です。このような場合には「あなたに対して適切な就業上の配慮をしてあげたい。そのためには私が主治医と会って意見を聞いたり、あなたに健康管理医の診察を受けてもらうことが必要です。それに応じてもらえないのであれば、申し訳ないがあなたに配慮してあげることは出来ない。」ときちんとルールを伝えることが重要です。
ただし、本人に対するマイナスイメージから、他の職員であれば認められるような有給休暇の取得を認めないといった、必要以上に本人の権利を制限することは不適切です。そのことで、さらに職場や上司に対する批判が勢いづくことがありますので、まずは、守るべき本人の権利はきちんと守り、その上で就業上の規則を遵守させていくというスタンスが肝要です。
(2)本人とのやり取りや出来事を文書で記録、保存する
 
このように本人の人格的要因がうつ症状の発症に影響を及ぼしている場合、後になって「誰がそんなことを言ったのか」「そんなことは聞いていない」「そんな約束はしていない」ともめるケースが多くあります。面倒でも本人とのやり取りや出来事、約束事を客観的な文章記録として残しておくことが重要です。このような記録は、万一、本人から業務災害の申請があった際にも、職場としては適切に対応したという根拠にもなります。 
 

4.今後の予想される問題

前記3つのパターンについての対応のポイントに共通するのは、職場での対応が困難になるのは病名が何かということよりも、実際の職務遂行能力が障害されるという部分にどのように対応していくのかということになります。過労が目立つメランコリー親和型の単極性感情障害(従来のうつ病、事例1)などは、治療によって完治し、職務遂行能力も完全に回復する事を多く経験します。ところが、人格障害などをベースにした単極性感情障害(未熟型の慢性うつ病、事例3)は、再発も多く、年々職務遂行能力が低下していくことを多く経験します。足の骨折で仕事を休んだ場合は、数ヶ月自宅療養し骨が再生し歩けるようになれば、また確実に働けます。通常のオフィスワークなどの激しい肉体労働でなければ、足の骨折が職務遂行能力に及ぼす影響は極めて小さいと考えられます。ところが、最近の労働形態は第三次産業の増大に伴って、IT化が進み、情報産業が盛大になるにつれて、知的労働能力の要求度が非常に高まっています。したがって、精神疾患の種類・内容は別として、精神障害の結果として「職務遂行能力」に大きな障害が出てくる事例についての職場復帰への対応が難しい状況になってきています。
人格障害をベースにした未熟型の慢性うつ病は、古くは精神因性の苦悩と実存的空虚(ロゴセラピー,V.E.フランクル:2004.)がその病態の中心になっていると考えられており、近年では自尊心が低く、SE:Self-efficacy,自己効力(激動社会の中の自己効力,A.バンデューラ:1997)やSOC:SenseofCoherence,首尾一貫感覚(健康の謎を解く,A.アントノフスキー:2005)などの回復が重要であると考えられてきています。未熟型の慢性うつ病は、一般的な休養と抗うつ薬治療のみでは、抑うつ状態からはその都度回復しますが、その後の再発が目立ち、職場としても医療機関としても処遇困難なケースが多いことを経験します。
最近、このような慢性うつ病に対する専門精神療法としてCBASP:Cognitve-BehavioralAnalysisSystemofPsychotherapy,認知行動分析システム精神療法(慢性うつ病の精神療法―CBASPの理論と技法―,J.P.マックロー:2000)が開発され注目されてきています。このCBASPの効果は驚くほどのもので、薬物治療とCBASPを併用した場合には、慢性うつ病の8割以上が反応(それぞれ単独では5割強が反応)し、うち半分は寛解するというものです。このCBASPの治療技法のなかに、以下の原則が述べられています。
「具体的な出来事を治療者に促されながら検討を繰り返すことで、考え方と行動方法を一部変えれば自分自身で問題を解決できると気付く。気付いたことを基に、問題となっている対人関係の出来事を解決できるようになる。問題解決ができたことで苦悩を軽減できる。解決策が同様の出来事にも適応できることに気付き実践する。」

≪原則≫
・治療者が患者に代わって行うことは何であれ、患者が自分自身で学ぶことはない。
・治療者が患者に代わって行うことは何もかも、患者は自分でやれるようにはならない。
・行動を変えるのは患者の責任である。
今回の職務遂行能力が障害された事例はこの原則にそって考えると、「どこまで働けるのか、どこまで働かせて良いのか」という枠組みのなかで自分の限界を(自分の職務遂行能力が極めて低下したこと)を自ら気付けるようにきちんと職場のルールを伝えるという点が重要になってきます。現在職務遂行能力を明確に測定する方法などはなく、働けるか働けないかという判断は、現実的な世界での会社組織による各種判断により明確になるのかも知れません。今後、職務遂行能力の客観的把握を職場におけるラインケアのポイントとして研究していくことが重要であるとわれわれは考えております。

「管理監督者のためのラインケア支援の方策マニュアル」

調査研究