アスベストを飲み込んだ八五郎

産保亭扇太

――― 横丁のご隠居さん人情相談 産業保健編 第5回
熊五郎 「てえ変だ、てえ変だ、ご隠居さん」
ご隠居  「なんだい、熊さんじゃあないか。アワ喰って、どうしたんだい」
熊五郎 「アワじゃありません。アス飲んじまったンですよ。大工の八五郎が・・」
ご隠居 「八っあんが何を飲んだって?」
熊五郎 「アスですよ、アス。いま話題の・・・。え~と、寒くなると上着の下に着込むものなんだっけ?」
ご隠居 「チョッキかい?」
熊五郎 「それを英語で言えば」
ご隠居 「ベスト」
熊五郎 「そうそう、アスベストの粉を飲み込んじゃったンですよ」
ご隠居 「へえ~」
熊五郎 「へえ~じゃないですよ。八五郎のやつ、てえ変なもの飲んじまったて、大騒ぎなンですから」
ご隠居 「まあまあ、落ち着きなさい」
熊五郎 「アスベストで、肺がんとか怖い病気になるっていうンじゃないですか。落ち着いてなんかいられませんよ」
ご隠居 「いったい、何をしていてアスベストを吸い込んだンだい?」
熊五郎 「吸い込んだンでなくて、飲み込んだんです! 部屋の壁に棚を取り付けようとしたら、天井にアスベスト使われていて、その欠片(かけら)がぽろぽろこぼれてきて・・・、八五郎のやつ口をあけていたもンだから、そのままパクリ・・・」
ご隠居 「飲み込んだのかい?」
熊五郎 「ええ、そうらしいです。そん時、息もしていたので、多分、肺の中にもアスベストの粉が入っただろうって言うンですよ」
ご隠居 「わかったよ熊さん。じゃがな、アスベストは細かな繊維が肺の奥の方に入らなければ危険じゃない。欠片なら胃の中に入るか、気管につかえて咳や痰と一緒に吐き出したと思うけど、仕事をしていた部屋の中にアスベストが使われていたというのなら、多分、細かな繊維も吸い込んだ可能性があるから説明することとしよう」
熊五郎 「へえ、お願いします」
ご隠居 「アスベストは石綿ともよばれるように、天然の鉱物だ。それを粉砕すると、0.02~0.2μm程度の肉眼では見ることができない極めて細い繊維に裂ける」
熊五郎 「じゃあ、アスベストは眼に見えないンですか?」
ご隠居 「1本々々は見えんが、撚り合わさったものなら見える。そうした大きな繊維は、吸い込んでも異物として痰の中に混ざり体外へ排出される。問題は、微細な繊維だ。いったん飛散すると空気中に浮遊しやすく、吸入されてヒトの肺胞に沈着しやすい性質がある。石綿の繊維は丈夫で変化しにくい性質のため、肺の組織内に長く滞留することになるが、そうしたアスベストが要因となって、石綿肺や肺がん、悪性中皮腫(ちゅうひしゅ)などの病気を引き起こすことがある」
熊五郎 「そりゃ大変だ。早く医者のところに連れていかなきゃ」
ご隠居 「待ちなさい。アスベストが肺に入ったからといって、全員が必ず病気になるわけじゃあない。もっとも最近の報道を聞くと、不安を持つのもやむをえんがなァ」
熊五郎 「それじゃあ心配はいらないンで?」
ご隠居 「うん。石綿肺は、概ね10年以上の職業性アスベスト曝露を受けた人にのみ発症するとされている。中皮腫や肺がんなどは、吸い込んだ石綿の量と発病との間には相関関係が認められているが、どの程度以上の石綿を、どのくらいの期間吸い込めば発症するかということは明らかではない。つまり、大量にかつ長期間石綿を吸入していた場合は、それだけ中皮腫や肺がんの発症率は高くなるが、中皮腫について言えば10万人に一人くらいしか発症していないし、石綿関連の肺がんもその1~2倍程度といわれている」
熊五郎 「なあ~んだ。心配して損した」
ご隠居 「いや、そうとばかりとも言えんぞ」 
熊五郎 「ええっ、いってえどういうことです?」
ご隠居 「八っあんは、かれこれ大工を20年はやっているな。ということは、これまでも建材を丸ノコで切断したり、古い住宅の解体や改修工事などにも従事してきたはずだ。住宅用建材にも石綿が含まれていたものが多いから、切断や加工の際に飛散した繊維を吸い込んでいる可能性は高い」
熊五郎 「ええ、たぶん・・・。じゃあ、いっしょに仕事をしていた左官のあっしもアスベストの繊維を吸い込んでいたことに?・・・」
 ご隠居 「そういうことになる。じゃが、すぐに病気になるわけじゃない。一般に潜伏期間が長く、肺がんでは発症までに15年から40年、中皮種でおよそ20年から50年とされておる。つまり、中皮腫や肺がんの患者はこれから増える。中皮腫死亡者は、1995年は500人だったが、だんだん増えてきて、2004年には900人を超えた」
 熊五郎 「いったいどの位まで増えるンですか」
ご隠居 「環境省は、アスベストを原因とする中皮腫と肺がんの死亡者数が、2010年までの今後5年間で、最大で約1万5千人を超えるとする初の試算をまとめた。また、ある大学教授は、2000年からの40年間に、中皮腫だけで約10万人が死亡するとの推測をしている。だから、いま使用を止めたからといって、すぐに危険がなくなるわけではないンだよ」
熊五郎 「じゃあ、以前にアスベストを吸い込んでいた可能性がある場合に、どこに検査にいけばいいんですか」
ご隠居 「心配ならば、近くの病院で肺のレントゲンを撮ってもらえばよい。石綿を吸い込んだからといって、全てレントゲン写真に影がうつるわけじゃないが、胸膜プラークといった病変が見つかることがある。胸膜プラーク自体は良性の病変じゃから心配はいらんが、過去に石綿のばく露があったことを示す重要な医学的所見だ」
熊五郎 「検査の結果、異常がなかった場合はどうします」
ご隠居 「いま何でもなくても、石綿による健康障害は、潜伏期間が長いので、1年に1回くらいは胸部レントゲン撮影等による健康診断を受けておくのがよいだろう」
熊五郎 「それだけですか?」
ご隠居 「そうじゃ。それと、肺がんについては、石綿ばく露と喫煙との組み合わせで肺がんの発症は相乗的に上昇するとの報告があるので、煙草は問題だ」
熊五郎 「ウナギと梅干しみてえだなあ」
ご隠居 「なんだい?ウナギと梅干って」
熊五郎 「”食い合わせ”が悪い」
ご隠居 「なるほど。とにかく、アスベストを取り扱った経験がある人は、いますぐ禁煙すべきだ。それと、吸ってしまったものは仕方ないと諦めないで、これからは粉じんが立たないような作業方法を考えたり、きちんとマスクを付けたりして、なるたけ石綿の粉じんを吸わないようにすることだ」
熊五郎 「わかりやした。八五郎にも、よオ~く言っておきます。あまり心配しないで、とりあえず落ち着けってね。ありがとうございやした」
―――所は変わって、八五郎の長屋。寝込んでいる八五郎、そこへ熊五郎がやってきて――
熊五郎 「様子はどうだい?」
八五郎 「もう駄目だ。がんでもうすぐ死ぬ。熊よ、俺が死んだらカカアにこう言っておくれ。俺がいなくなっても生きてゆけと。子供たちには、俺の作った家々が、ふるさとの町々に残っていると・・」
熊五郎 「ばか言うな。病は気からっていうじゃないか」
八五郎  「いや違う。この病は石からだ」

おあとがよろしいようで