賃金放棄は有効か?

産保亭扇太

――― 横丁のご隠居さん人情相談 労務管理編 第1回
八つぁん 「ご隠居さん、ご隠居さん。えらいこった」
ご隠居 「なんだね八つぁん。どうもおまえさんはいつも大げさでいけない。どうしたんだね?」
八つぁん 「それが本当に大変なこって。熊公のやつ、会社を辞めたんだが、給料がもらえないって言うんですよ。それでおかみさんからも、あしたからどうしようかと、泣きつかれちまって」
ご隠居 「おやおやそれは大変だね。しかし、なんで会社をやめたんだい?」
八つぁん 「それが、会社の金がなくなって、それで責任を取らされたっていうわけです」
ご隠居 「ふう~ん。それと給料とどう関係があるんだい」
八つぁん 「会社は。なくなった分を熊公に弁償しろと…」
ご隠居 「熊さんは、弁償するといったのかい?」
八つぁん 「いや。それがはっきりしないんで。熊公が預かっていたお金がなくなったのは確かなんですが、気が動転して、会社にそう言ったかもしないけど、覚えていないというんです。給料って、法律で全額支払うよう決まっているんではないですか?」
ご隠居 「そのとおりだ。だが、全額払の原則が意味するところは、使用者が一方的に賃金を控除するのを禁止しているっていうことだ。だから、熊さんが自分で、給料はいらないと申し出たとすると…」
八つぁん 「そんなぁ。なんとかならないんですかい?」
ご隠居  「まあ、よく聞きなさい。熊さんは、どうも、自由な意思で給料を放棄したわけではなさそうだ。冷静になって一筆書いたわけでもないだろう」
八つぁん 「そうなんです。熊公も覚えていねえくらいですから」
ご隠居 「じゃあ、熊さんの意思がはっきりしないようでは、給料の請求権を放棄する意思表示としての効力はないともいえるね。」
八つぁん 「本当ですかい」
 ご隠居 「本当だ。裁判所の判例(シンガー・ソーイング・カンパニー事件)では、労働者が退職に際し、みずから退職金債権を放棄する意思表示をした場合その放棄は有効であるが、それには労働者の「自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在しなければならない」としている。熊さんの場合は『動転して』ということだから、ここでいう「自由な意思」表示に基づく債権放棄であると認めに、合理的な理由があったとはいえないね」
 八つぁん 「わかりやした。でも、これからどうしたらいいんで?」
 ご隠居 「まずは、会社に給料を払うよう請求してみることだ。それでも埒があかねけりゃあ、労働基準監督署に相談することだぁ」
 八つぁん 八つぁん 「ありがとうございました。早速、熊公にそう伝えます」
 ご隠居 「おい、慌てると転ぶよ。ゆっくりいきなよ」
 八つぁん 「へえ。なにせ給与だけに、急を要するものですから」

 
 おあとがよろしいようで