職場で取り組むストレス対策 ~セルフケアの実現のために~

(株)日立製作所日立健康管理センタ カウンセラー・臨床心理士
小川 邦治
(さんぽいばらき 第34号/2009年3月発行)

はじめに

労働者のメンタルヘルスに関する問題が指摘されて久しい。厚生労働省(2008)によると,心の健康対策に取り組んでいる事業所は2002年では全体で23.5%であったが2007年では33.6%に増加し,特に「労働者からの相談体制の整備」と「労働者および管理監督者への教育研修」が積極的に取り入れられている状況にある。

本稿では,ストレス対策としての「セルフケア」を取り上げ,その実現に向けた展望について論じたい。

1次予防としてのセルフケアとストレス対策

厚生労働省(2006)は,職場におけるメンタルヘルス対策を「4つのケア」として構造的に実施するように示し,セルフケアはその中でも中核的な役割を果たしている(職場におけるメンタルヘルス対策のあり方検討委員会, 2006)。
セルフケアとは「労働者自身がストレスや心の健康について理解し,自らのストレスを予防,軽減するあるいはこれに対処すること」(厚生労働省, 2006)とされており,指針では研修・情報提供による心の健康についての正しい理解の普及と相談体制の整備による自発的相談の促進が挙げられている。
このうち教育研修では,認知行動療法やストレスコーピングに基づいたストレス対処プログラムを実施したり,リラクゼーションやエクササイズを取り入れるなど,個人のストレス抵抗力を強化する様々な試みがなされている。

セルフケア推進の落とし穴

指針の示す「セルフケア」が前提とするのは次の3点である。
すなわち
「①正しい知識を学べば,労働者自身が気づくことができる」
「②労働者自身がストレスに気づけば,自発的に対処できる」および
「③労働者はストレスに対して自分で予防・軽減できる」ということである。
これらは,「自分の健康に責任を持ち,軽度なものは自分で手当てをする」というセルフメディケーションの考え方に沿っており,この考え方自体は重要である。しかし,現場の視点からすれば,果たして人間はそこまで強いのだろうか,と疑問を感じることがある。
まず,触れられているのが知識獲得の側面での気づきのみであることである。本来気づきとは五感を通じて得られるダイナミックな体験であり,研修場面で気づきを促進するためには実施者に相応の工夫と配慮,技量が求められる。また,「ストレス」はその正確さは別として広く知られた言葉であり,知識重視の教育では表面的な理解にとどまってしまい、結局気づきや行動変容に至らないことが多い。また,ストレッサーには個人では如何ともしがたいものもある。基本的に部下は上司を選べない。個人の対処能力任せでは,その人に我慢や克服を無理強いするだけになる可能性がある。しかもセルフメディケーションはそれ自体が正論なので,まじめで責任感の強い人であれば更に一人でなんとかしようとして状況が悪化しかねない。自己責任の過度な強調は労働者の孤立,疎外を生む可能性がある。これらの点を押さえておかなければ,いくらセルフケアを訴えても,労働者にとっては「新たなストレス」と認知されかねない。

組織と個人の健康をめざして

結局のところセルフケアを実現するためには個人向けのストレス対策のみでは不十分であり,その個人が属している「組織そのものを健康に」していかなければならない。
わが国では医学モデルに基づくストレス予防対策,すなわち個人のストレス状況の改善を中心とした対策が重視されてきた(原谷, 2006)。アメリカにおいてもSauter, Lim & Murphy(1996)は,職業性ストレスと労働環境の間に因果関係を見出す多くの研究があるにも関わらず,企業の関心が組織ではなく労働者個人に焦点を当てた介入に向けられる傾向がある,と指摘している。
これまでの伝統的な見方では,個人の健康追求と企業の利益追求は矛盾するものであった(Sauter et al., 1996)。現在個人と組織の関係を相補的にとらえ,肯定的な意味を見出すために「組織の健康」の研究が産業保健心理学の領域で始まっている。「健康な組織」とは「生産性や組織効率を達成するだけでなく労働者やコミュニティの幸福も実現する組織」(Jaffe, 1995)である。「健康な組織」の研究はまだ始まったばかりであり,わが国においても今後研究の蓄積が期待される。
個人向け対策の側面だけでなく,組織と個人が相補的な関係にあるという視点に立つことでセルフケアの持つ本来の意味が発揮できるのではなかろうか。そのためにも,今後組織そのものの健康度を高める対策が望まれる。


引用文献
Jaffe, D.T. (1995). The Healthy Company : Research Paradigms for Personal and Organizational Health. In S. L. Sauter and L. R. Murphy(Eds.), Organizational risk factors for job job stress. Washington, D.C., American Psychological Association., 13-39.
厚生労働省(2008).平成19年労働者健康状況調査の概況
厚生労働省(2006). 労働者の心の健康の保持増進のための指針
職場におけるメンタルヘルス対策のあり方検討委員会(2006) 平成17年度職場におけるメンタルヘルス対策のあり方検討委員会報告書 中央労働災害防止協会
Sauter, S.L., Lim, S.Y. & Murphy, L.R.(1996). Organizational health: a new paradigm for occupational stress research at NIOSH. 産業精神保健, 4 248-254.